西蒲原土地改良区 〜水と土、未来に引き継ぐ 西蒲原〜

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新川の歴史(新川開削と底樋工事)

 穀倉、新潟平野の中央に位置する西蒲原平野。この2万ヘクタールに及ぶ肥沃な大地の誕生には、壮絶な歴史が秘められていた。

江戸時代の西蒲原
江戸時代の西蒲原↑クリックすると大きくなります

 その昔、この一帯は鎧潟・田潟・大潟(通称三潟)を始めとする数多くの潟や沼・窪地であり、新川は早通川と呼ばれ、この潟を通じて新潟市西区新通地内で西川に合流し、信濃川に注いでいた。

 当時(江戸時代後期)の水利状況は、信濃川・中ノ口川・西川の3河川がかんがい用水の根幹を為し、西川は排水路の役割も果たし、排水専用の河川は存在しなかった。 また、西蒲原は幕府直轄領をはじめ・長岡・村上など9藩もの領地で分割・管理され、治水対策も各藩独自で対応していたため、全地域を一丸とした根本的解決策は講じられていなかった。

 このため、ひとたび豪雨ともなれば西川の水位は上昇し、低湿地であったこの一帯は悪水を排除することは不可能となり、一面泥の海と化して収穫の喜びをみることは稀(まれ)であった。

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 先人達は、この打開策として悪水を直接日本海へ放流する請願を元文2(1737)年から約70年間にわたり9回行ったが、いずれも信濃川の水量減少を恐れる新潟町の反対に遭い、許可されることはなかった。
 文化年間に入り洪水被害が特に頻発したため、文化11(1814)年長岡藩、中野小屋村割元(庄屋の上役)伊藤五郎左衛門将房は、各藩の治水対策の相違や巨額な経費、並びに新潟港の反対等々難問を解決しながら長岡藩、村上藩の52ヶ村を結集し、同12(1815)年、大潟より水路を掘り西川に底樋(併せて西川の水運も確保)を伏せ、内野村金蔵坂を掘割って日本海に悪水を吐き出す計画を長岡藩から正式に幕府へ出願した。

底樋普請絵図
西川を迂回させる底樋普請絵図

 その後工事施行の許可はなかなか下りず、水害に見舞われ苦しみに喘いでいる農民たちを見かねた将房は、全責任を一身に負う覚悟で宿願の大工事を開始した。幸い文化14(1817)年に許可も下り、翌文政元(1818)年金蔵坂を掘割り、新川を開削(延長5キロメートル)し、西川の底に木製樋管2門(長岡樋・村上樋)を埋めて西川と立体交差させる工事は本格的に開始された。
 この年、志半ばにして将房は亡くなったが、伊藤五郎左衛門祐利により文政3(1820)年、遂に 工事は完成した。

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木樋の模型
木樋の模型

 この効果により大潟・田潟の多くの潟は減水して約240ヘクタールが良田と化し、築千坊新田・貝柄新田などの新しい村ができあがったのである。しかし、金蔵坂の砂崩れや藻の発生などによりなお排水不完全であったため、文政9(1826)年更に新川を拡張・底樋1門(双領樋)を追加し、翌年完成した。

 これら工事に要した費用は6万両を超え、負担は長岡藩6割・村上藩4割と定められたのであるが、村上藩がこの大部分を藩が賄ったのに対し、長岡藩は財政逼迫を理由に願人一同に負担させたため、18名(後16名)の願人は全財産を投げうって、工事を完成させたのである。

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 その後、この工事効果が予想以上の収益を得るに至ったため、苦難と努力によって藩主より委ねられた三潟の水面及び周囲沼地は、文政10(1828)年に全域を上地(幕府直轄領)させられ、願人達は一家離散の憂き目を見るに至ったのである。

 しかし、その後も農民たちはこれらに屈することなく天保4(1833)年、三潟開発の目的で更に新川を拡幅・底樋2門(三潟樋)を追加増設(計5門)し、文久及び慶応年間(1860年代)の洪水や経年劣化により底樋が破損したため、慶応3(1867)年にこの伏せ替えを行ったのである。

 これらの新川開削及び底樋改修の一大事業は、時の支配者の命により行われたものでなく、全てこの土地の農民達の熱烈な要望と莫大な犠牲によってなされたものであることを忘れてはならない。

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木樋の模型
新川暗閘

 明治42(1909)年にはこの底樋の前後において平常時10センチメートル、洪水時で約30センチメートル以上もの水位差が生じ排水阻害されていたため、県営事業で改修に着手し、アーチ型煉瓦及び花崗石造りの底樋9門が大正2(1913)年に完成した。 世に言う「新川暗閘」にて西蒲原全郡の治水は好転し、併せて大河津分水路の完成により地域農業の急速なる発展を促したのである。

西川水路橋
現在の西川水路橋

 また、更なる土地改良事業の発展により機械力が発達し、揚排水機が急増したために抜本的改造工事が必要となり、昭和30(1955)年国営事業で暗閘を撤去し、新川の水を直流させ、その上に37メートル余のトラス2連の水路橋を架けて西川を通水させたのである。

 これにより水害は根絶し、農民達の不安は解消され、現在に至る豊かな大地が育まれてきたのである。

 

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